mayuheho123のブログ

ほぼ闘病日記

日常に戻って14 作業療法士さん来訪〜白血病編(番外編)7Aに友人たち[最終話]

のんちゃんママ

3/21 作業療法士さんが見えた。バイタルチェック後、足のマッサージをしていただきストレッチで伸ばしてもらった。後、腰上げ、片足腰上げ、立って片膝立ちからの直立姿勢に戻す。これを数回。私が1番苦手な動きだ。膝というより腰を意識、気持ち前傾姿勢で起きる、これがコツだそうだ。気持ち前向き、私のスローガンになりそうだ。

娘は明日退院出来るそうだ。本当に良かった。自分の感染症罹患時、あれこれ症状が出て、ほぼ軟禁状態、CRPもなかなか下がらず、ウツウツしたことを思い出すと、しみじみ娘の快癒が嬉しい。

娘の罹ったMRSAは結構な患者数がいるそうだ。子供にはワクチンがあるのか分からないが、大人の罹患は大変そうだ。家族間で移しあい、負のループになることも多いとか。基本アルコール消毒、お風呂の掃除とトイレの清拭、手洗いマスク、が予防法だそうだ。新型コロナと同じ、感染症はどれも似たようなものか。然も私もそうだったが後々の抗生剤の耐性が怖い。そして飲み薬の在庫も品薄である。

飲んでいるエリスロシンも出荷停止、少しでも在庫がある薬局を探して確保できる分だけでも持っていた方がいい、そう薬局の人に言われた。門前薬局なれど、総合病院ではないので使用頻度が少ないのかも知れない。コロナ禍以降、咳止め、痰切り、抗生物質(クラリスなど)の薬不足を実感している。

ジェネリック推奨の国の方針で正規品の生産量も減っているだろう。なくては身体に支障が出る患者が沢山いる。薬価が高くなっても今手に入れられる薬を飲むしかない。そしてこれからの自己負担額値上げの揺さぶり政策、考え無しの私でも危機感を覚える。


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(Iさん)

ちょっと昔の歌手と同じ苗字だったように思う。

年代から言ってなかなか重い治療を出来る状態になく、別の病院ならば可能ということで、そこまでの体にするために治療していた人だった。

必ず、私はGセンターへ転院するから、と、それを希望の光に思っていた。

パパさんの写真をベッドサイドの棚に飾り、いつもパパさんを自慢し、偲んでいた。

若い娘さん達が買ってきてくれる可愛いパジャマをうれしそうに、でもこんな若いの買ってきてと、憎まれ口をききつつ毎日ファッションショーをしていた。

実は私も同じものを買ってしまい、これは着られないと・・・あきらめたこともあった。

息子が一人独身でいるようで、面会時間ぎりぎりにいつもやってきた。

そして、きよしが困ってもいいの?、ママは悲しくないの?などと意味不明なことを言いながらおこずかいを貰っていた。

その声がとても大きく、段々事情が見え隠れしてくると、彼の面会が同室患者からするととてもストレスになっていった。

ある日、思わずお母さんをそんなにいじめないで、と軽く口をはさんだら、猛烈に怒って私は何も悪いことはしていません。と大変ご立腹で、全棟に響きそうな勢いで帰っていった。

Iさんは何とも言えない顔をしてごめんね、と私にあやまった。

私こそよけいな口出ししてごめんなさい。私も平身低頭してあやまった。

そのから数日、Iさんは自分が元働いていたおそばやさんのおそばがとてもおいしいからと、病室からお店屋さんに電話をして人数分のおそばをゆでてくれ、私が後で取りに行くからと注文をしてくれた。

そして、そのためにきれいにお化粧をし、外出しておそばの出前をしてくれた。

きっと、息子のことを考えそんなことをしてくれたのだろう。

でも、食べているみんなを見て優しそうに微笑んでいる顔はとても幸せそうだった。

別の日には、同室の人から、Iさんのお財布の鈴の音がたまらなく怖い、どうにかなりそう、と言われ、わたしがこっそりこわいんだって、というと、なんで鈴が怖いんだろう、と、悲しげな顔をしながらもはずしてくれた。

これまた別の人からは、咳き込むことが多かったIさんの体調を自分に移されたらと、マスクをするように頼んでくれと言われ、これまたこっそり私は呼吸時にも楽なようなマスクを買って進呈した。

トイレ帰りに一緒になるとなんとなく腕を組んでくれるようになっていた。

それから、Iさんは本来の病気ではなく、別の箇所の不具合から、別の科で手術をすることになり、しばらく留守にするけど、戻ってくるからよろしくね。と手を振って元気に手術に挑んでいった。

手術自体は成功だったらしいが、合併症か、しばらくすると痛い痛いとうめき声を上げるようになり、個室に移動していった。

病院で、体調悪化による個室移動はイコール生命の危機となる。

しばらくして、病室のドアがあるとき閉ざされた。

これは、誰かが亡くなって、葬送の行列が搬送エレベーターまで続くということだ。

その閉じたドアから、Iさんの娘さんが泣きながら飛び込んできた。

そう、この葬列はIさんだったんだ。

でも辛い体から解放されて良かったね。本当にそう思って、Iさんに手を合わせた。

息子もいた。泣きながら寄り添っていた。私はホッとした。

お母さんの分まで頑張って生きろよー、心の中でエールを送ったことだった。


(ごめんね、八重子さん)

八重子さんは初めて入院した日に隣のベッドだった人。

明るく私の名を呼んでくれて“よろしく”とあちらからご挨拶してくれた。

私のいたベッドは廊下側であったため、カーテンを閉めると暗くならざるをえず、八重子さんは適宜境界のカーテンを開けて日差しをたむけてくれた。薬の副作用でフラフラな私に腕を組んで廊下を歩きナナースに驚かれると、これからデートと称して、荷物を肩にしょい、ランドリーまでついてきてくれた。

あれこれと不慣れな病院生活を介添えしてくれた人だった。

30,40代の息子さん2人が交互に見舞いに訪れ、あれやこれやと日常生活の細々を話していくのが日常だった。

八重子さんがおしんこを食べたいと言えば買ってくる、素麺が食べたいというとゆでてくる、夜面会時間ぎりぎりでも訪ねてきて、八重子さんが好きだというチェック柄やボーダー柄の新しいパジャマを買ってきてくれたり、本当によく世話をする息子さんたちだった

出身を聞いても恥ずかしがって北の方としか教えてくれなかった。

でも、“いぶりがっこ”が食べたかったらしく、息子さんは早速買ってきていたから東北の人だったであろうと思う。

私は無知で“いぶりがっこ”を知らず、八重子さんが言っていた“エブリがっこ”と覚えてしまい、はたまた恥ずかしそうに“い”と“エ”を言い直してくれた。

いつもおすそ分けをくれるのだが、私は抗がん剤のせいでむかむかが止まらず、冷蔵庫からそこはかとなくただよってくるあの匂いにはちょっとまいったこともあったけど。

若い時はママさんバレーをやっていたこと、病気知らずでスポーツ好きで、働き者。

本当にそうだったであろうと想像できる人だった。

ともかく、この病気群は発熱、が重要なキーポイントなので、毎朝の検温では何度も体温計を吟味し、ちょっとでも納得いかないとあれこれ工夫して普通体温にもっていくのだった。毎朝の病棟巡回散歩、これも欠かさない人だった。

それでも、外泊ということには滅法消極的だった。それは、帰っても息子さんたちは仕事に出かけていて、昼間は一人でいなければならないこと、息子さんたちへの家事負担などを思って躊躇していたのだという。

そんなある日、久々の外泊ができることになり、真新しいお洋服に着替え、この帽子が嫌なのよねと言いながらも、八重子さんは息子さんたちに守られて家に帰っていった。幸せそうな顔を思い出す。

そうこうしているうちに八重子さんの容体が少しずつ悪くなっていった。

私は入院生活にも慣れ、向かいの病室のお仲間も出来、八重子さんの床につく姿を見るのが段々つらくなり、少し距離を置くようになった。

それでも向こうでお茶するみたいだから一緒に行きましょうと誘ったりしたが、八重子さんは寂しげに笑って、そういうの苦手だから、というと、いってらっしゃいと手を振るのだった。

ある日の夜更け、八重子さんが重篤になっていったらしい。

個室に移動し、幾日かで呼吸器をつけるようになっていった。

私はどうしていいかわからず、唯自分のできること(その時期、夏用の木綿糸で通気性のよい帽子を編むのがマイブームだった)をひたすらやった。

やっと編みあがるというそのとき、息子さんが私を呼びに来て、声をかけてやってくれと頼まれた。

私はまだ糸の始末をしていない帽子を握りしめて、個室のドアを開けた。

そこにはつらそうな呼吸をして、目を閉じたままの八重子さんがいた。

涙が止まらず、何だか、ひたすらごめんね、ごめんねと繰り返して言っていた。

そう、八重子さん、私嫌だったんだよ、自分もそうなるんじゃないかって思うと、とても一緒にいて呑気にしゃべることは出来なかったんだよ。ごめんね。ごめんね。

これ、帽子が気に入ったのがないって言ってたから、色が気に入らないかもしれないけど、サーモンピンクで編んだんだ。かぶってね。そんな気持ちで私は八重子さんの手に帽子を乗せた。

しばらくして、八重子さんは逝った。

息子さんは彼女に私の編んだ帽子をかぶせてくれた。

その後、私は八重子さんのいたベッドの前の窓際に移動していた。

空が青く、雲が白く、八重子さんが、いいんだよ、いいんだよ、ごめんね、気にしないでそう腰をかがめて振り返りお辞儀しながら、ピンクの帽子をかぶって、空を昇っていく様子が見えた気がした。


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ここまでで私の7Aの友人たちの記憶のファイルを閉じる。

因みにHさんはご健在、ご主人と海辺でのリゾート暮らしを満喫している。

息子さんは血液内科のお医者さんになったそうだ。

結構きつい思い出巡りだった。


また明日❗️